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     夏のひこうき雲のsummercontrail(略して左近)が書いています。

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2008-05-25

宗教的、倫理的判断とは 宗教的、倫理的判断とは - モヒカンダイアリー「アップル通信」 を含むブックマーク はてなブックマーク - 宗教的、倫理的判断とは - モヒカンダイアリー「アップル通信」

 umetenさんがはてなブックマーク - テンノーゲームの「沈黙」 / 2008年05月24日で、映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲へのはてなブックマークコメントとして、

[映画][社会][自殺問題][アウトサイダー問題][身体と精神][宗教][批評]「善意が人を殺す」というのを自ら証明している批評。/<自殺を念じるまでに至った人間>に、「我執」、すなわち悪だという宗教的、倫理的判断を下して、「二重に殺している」時点で駄目。

はてなブックマーク - テンノーゲームの「沈黙」 / 2008年05月24日

 と書かれていました。

 私は自分が<自殺を念じるまでに至った人間>を「二重に殺している」とはぜんぜん思わないのだけど、せっかくなのでumetenさんにもう少し詳しく説明していただければありがたく思います。

 ちなみに、「その人の命はその人の所有物で、どう処分しようと自由」とお思いだとしたら、それも特定の宗教的、倫理的判断だと思います。

 少なくとも日本の現行法では、真摯な明示的承諾があっても、承諾殺人罪にはなるし、自殺幇助罪というものがありますから、命というのがその人の可処分な権利・利益とはとらえられていません。

 そこから考えると、一応倫理的判断を捨象した社会のルールとしては「命というのは本人が自由に傷つけていいものではない」と考えるのが筋ではないかと思います。

 さらにさかのぼった話をするのなら、どのような立場をとるのであれ、それは自分なりの特定の宗教的・倫理的判断にならざるを得ません。


 それからこうした問題についてはまず専門家に傾聴するべきだと思うのだけど、

私はまた、エリザベス・キューブラ・ロスの『死ぬ瞬間の対話』の以下の箇所も連想した。端的には、質問124番目(昭和55年の版で91頁)のところ。

映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲

 以下はお読みになったのだろうかといぶかしく思いました。


 付け加えると、〈良いこと・悪いこと〉という基準以外に、〈そのことについてその人を非難できるか〉という基準が別個に存在しうることにも留意していただければと思います。悪いことかどうか、ということと、その人を非難できるかどうか、ということは違います。「違法性」と「責任」というキーワードが思考の整理には有用です。

 私は等の映画の中の自殺を、悪いことだとはしていますが、非難できないということを前提にしています。

結論を急ぐ。

映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲

 以下を読み返してみてください。


 umetenさんのこころ世代のテンノーゲームは以前から拝読していて、umetenさんのだいたいの問題意識は理解しているし共感できるつもりですが、今回の私の記事へのご批判は見当外れだと思います。

[映画][社会][自殺問題][アウトサイダー問題][身体と精神][宗教][批評]「善意が人を殺す」というのを自ら証明している批評。/<自殺を念じるまでに至った人間>に、「我執」、すなわち悪だという宗教的、倫理的判断を下して、「二重に殺している」時点で駄目。

はてなブックマーク - テンノーゲームの「沈黙」 / 2008年05月24日

 まず、確認しておきたいのですが、私は人を殺していません。刺激的で度を超えた表現は、その表現を用いた人の正確な認識そのものを歪め、曇らせます。

 映画の中で本人を殺したのは、善意ではなく、〈社会的に有用な人間、能力の優れた人間でなければ生きている意味がない〉というドグマによる、自分という人間に対する究極の蔑視です。それはむしろ本人に向けられた悪意です。

 念のために書いておきますが、〈善意に基づく行動なら、それだけで立派な行動だ〉というわけではもちろんありません。しかし他方で、善意こそが諸悪の根源というのも一面的な見方にすぎません。単なる悪意も世の中にたくさん転がっていて、実際に大勢の人を殺しています。

 重要なのは、悪意に基づく行為であれ、善意に基づく行為であれ、それが何をもたらすか?ではありませんか。


 私の記事は、自分の社会的な価値や能力の低さに悩み自殺を考える人に対して、

 自分の置かれている環境ゆえに自分を無価値だと呪い、楽しくないとつぶやき、死んだ方がいいと思いつめる人は、同じ状況にある人すべてに「無価値な存在で、つまらない生活を送っており、死んだ方がいい」という烙印を押している。そのように自分と他人を裁くだけの知性と能力と権威を持った人は、どこにもいない。

 自分という存在が他人から高く評価されないだとか、自分の思い通りにできないという理由で、自分という人間を殺すという行動。何かを思い通りにできないからといって、その思い通りにならない相手を怒りによって殺すという発想。そうした行動や発想は、「他ならぬ自分については自分がどのように粗末に扱ってもいい」という考えを前提としている点で、まったく不当だと思う。

 マタイによる福音書19章19節には、「隣の人を自分のように愛せよ」という"神の"が紹介されている*1。自分のことも隣の人のように愛しなければならない。

映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲

 と伝えることで、自殺を思いとどまらせる効果をも願って書きました。

 自分の考えが間違っていると言われれば不快に思う人もいるかもしれませんが、死ぬよりはましでしょう。

 人間は無力でも、社会的にも地位が低くても、ダメ人間でも、他人に迷惑をかけていても、それでも生きていていいのです。これは私の、個人的な、しかしかたい信念です。

 そうは思わないという人は、世界中の無力な大勢の人に対して「役立たずは死ね」と言っているのと同じです。

 umetenさんはどうお考えですか。

 自分の考えを批判されないことの方が自分の命より大事だと思う人については、私が映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲で引用したエリザベス・キューブラ・ロスの分析が部分的に当てはまるのだろうと思います。

stepstepsstepsteps2009/12/14 15:42こんにちは。
このブログは多くの点で共感できる良いブログです。
僕もモヒカン族の一人としてやっていける自信ができました。

今回のエントリー記事なのですが、素面な人が自殺をとどまるための予防線としては良いと思います。あくまで方法論的論理で。しかし「本気で」死にたい人に対する論理としては、つまり臨床的論理としては、無価値です。

自殺は哀しいかな、我執そのものです。それを「知ったうえで」どう扱うかが問われているのです。今まさに自殺を試みる人は「他の役立たず」は生きていようと死んでいようとどうでもよいのであって、「今まさにここにいる我という役立たず」を今まさにどうしてやろうか、という話を、今まさに解決しなければなりません。

自殺したい人は本当は自分のことを愛したいんですが、それができないので自暴自棄になって死にたいのですから、左近さんの言うことはブログ上の文字列としてはもっともですが、残念ながらそれでは愛する人を止められないでしょう。

自殺を思いつめる場合は多くの場合精神を病んでしまっています。無理にでも精神科に引っ張り込んでとりあえず心が健康で冷静な状態に戻すのが有効かと思います。そうすれば論理的な話も少しは頭に入るかもしれませんし、このエントリーが役に立つかもしれません。

summercontrailsummercontrail2009/12/14 21:05stepstepsさんはじめまして、おほめいただいてありがとうございます。モヒカンぶりはほどほどがいいみたいですよ。

「無理にでも精神科に引っ張り込んでとりあえず心が健康で冷静な状態に戻す」ということですが、それができる関係であれば、そうかもしれません。
stepstepsさんもそうされることでしょう。
 ただ、「無理にでも精神科に引っ張り込」むことが許される間柄というのはかなり限られているでしょうね。また、「心が健康で冷静な状態に戻す」というのは実際には困難なことではないかと思っています。さらに、「戻す」プロセスにおいても薬物投与以外に有益なものとして、「認知療法」についてもWikipedia等で調べてみてください。アルバート・エリスという人の本はなかなかよかったです。

 病状の重さや判断力、行動制御能力の程度には、stepstepsさんのおっしゃる「素面」と「「本気で」死にたい人」の間にいくつかの段階があります。自殺を考えていても、人の話を聞いたりネットの文章を読んで内容を理解できるぐらいの人もいるでしょう。そういう人に、
>人間は無力でも、社会的にも地位が低くても、ダメ人間でも、他人に迷惑をかけていても、それでも生きていていい
 という考えが届けば、それだけである程度は自殺の抑止に役立つと考えています。机上の空論としてでなくそれこそ臨床的な経験から言うのですが、自殺念慮に襲われたとき、(これはただの我執だ)(私の現在の無力感にもかかわらず、私の命は、他人の命と同じように貴い)と思えれば、ある程度は、その感情を客観的に見つめ、その感情に流されないでいられます。
 これは別に論理的な話ではなく、何に価値を置くかということです。

>自殺したい人は本当は自分のことを愛したいんですが、それができないので自暴自棄になって死にたいのですから、左近さんの言うことはブログ上の文字列としてはもっともですが、残念ながらそれでは愛する人を止められないでしょう。

 厳密に言えば、私は「自殺したい人は本当は自分のことを愛したいんですが、それができないので自暴自棄になって死にたいのです」とは思わないんですよ。揚げ足とりだと思わないでくださいね。「愛せなくなるから自暴自棄になる」というのなら、それは元々自分を愛していなかったのです。愛というのは、愛する相手の能力や状態には関係ありません。

>残念ながらそれでは愛する人を止められないでしょう。

 死なないでほしいという思いと相手の人格の尊重の間で、では実際の場面でならどう行動するか、stepstepsさんの表現で言えば「臨床的論理」については、
映画「ミリオンダラー・ベイビー」はよくできたダメな映画だと思う - 夏のひこうき雲
http://d.hatena.ne.jp/summercontrail/20060820/mdollerbaby

> では仮に、私の身近な人がヒラリー・スワンクの演じたような立場にいて、自殺を強く訴え失敗していたらどうするか。
 以下に書きました。「ヒラリー・スワンクの演じたような立場」というのは、既に自殺を試みた患者として病院で看護されている立場のことですから、相手がメディカルケアを受けていることを前提としています。

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