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2008-03-30

「よりよい言論」を誰が判断するか、誰が強制できるか、そのほか 「よりよい言論」を誰が判断するか、誰が強制できるか、そのほか - モヒカンダイアリー「アップル通信」 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「よりよい言論」を誰が判断するか、誰が強制できるか、そのほか - モヒカンダイアリー「アップル通信」

 表現の自由といじめの規制 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - モヒカン族と、そのコメント欄受けて。


 まず、学説状況に関する部分についてはとくに反応がなかったので、私の理解を前提として進めてよいものと理解します。

 つまり、憲法上人権に対して許される制約としては、自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉とがあり、個人の尊厳による制約は自由国家的公共の福祉による制約としてとらえられる。これは「自由国家的公共の福祉」と「社会国家的公共の福祉」という概念の定義からはそうならざるを得ず、この部分で説の争いなどはありません。

 なお、一般に合憲性を判定する際には、目的だけでなく制約の具体的な「手段」が決定的に重要になってきます(これは社会国家的公共の福祉としての制約の合憲性を検討する場合も同じです)。

 ですから、本来は制約の目的だけでは合憲かどうかなど議論できません。「この目的のためならどのような手段を使ってもよい」という場合でも、「この手段が、その目的のために本当に必要か」「その目的のために必要な範囲に限定された手段といえるか」などが検討されることになります。

 以上を前提として、〈表現の自由を「社会信義」「公共言論をよりよいものにする」という目的(その内実はともかく)によって制約して良いかどうか〉について、一応お答えしてみます。realisteさんご自身がキーワードを出してくださっています。


民主的な

 民主的な意思決定プロセスというのは、個々人が自分の考えを自由に述べたり相互に批判したりできるのが前提になります。表現の自由を「言論をよりよいものにしていく」ために制約したのでは、民主主義の前提・基盤を失うことになります。表現の自由がない社会は民主的でありえません。

 なお、民主主義とは単なる多数派の意見のごり押しではなく、少数派の意見を集団的意思決定に反映し組み込むためのプロセス、その可能性を確保するものとして理解できます。

 表現の自由が確保されていれば、「きちんと議論」することも理論的には可能だし、議論に参加した者の間で、一定の合意を形成することもできるでしょう。しかし、多数派による少数派に対する抑圧は防げません。

 歴史上起こった表現の自由の侵害については、いずれも「不健全で悪質な言論を排除して公共言論をよりよいものにしていく」ことが根拠とされていると言えます。焚書坑儒から始まって、戦時中の検閲、戦後のGHQによる検閲、現在でも中央アジアや北朝鮮、中国でのチベット状況についての報道の自由への制約もそうでしょう。


二重基準論

 「決定的」根拠を欠くというrealisteさんの表現は、〈根拠が決定的かどうかは個々人の判断で評価が分かれうる〉ということを前提にしていて、慎重でよい表現だと思います。

 私の知る限りでは、二重の基準論を否定する学説は、人権の性質に応じた個別的アプローチをすべきという主張をとっているので、表現の自由の次のような性質を否定していません。

 表現の自由は、いったん制約されてしまうと、その制約が不当なもの(つまり憲法違反)であったとしても、もはや「あの制約はやっぱりおかしい」と主張することが難しくなってしまうので、国会など民主制のプロセスによって回復することが困難です。

 たとえば不敬罪を考えてみてください。不敬罪がまだあったとしたら、不敬罪など廃止するべきだという議論自体が不敬罪に当たりかねません。結果として、不敬罪の改正や廃止の議論そのものができなくなってしまう。

 だから、表現の自由に対する制約は原則として許されないという方向で検討しなければいけないのです。表現の自由は、民主主義の前提です。

 これに対して、財産権に対する規制もたしかに萎縮的効果はありえますが、「財産権に対するこの規制はおかしい」と発言すること自体は規制の対象外となるので萎縮的効果はありません。だから財産権は民主的過程で回復することが可能です。


思想の自由市場

 思想の自由市場という言葉は、「保護市場」や「規制市場」でない点にポイントがあります。

 商品の価格は個々のプレイヤーが自由に売り買いを判断することで市場のメカニズムによって決定されていく。そのような市場こそが健全な市場だ。

 それと同様に、思想の価値や正しさは、個々人の(賛同や批判、無視といった)判断の集積が決めていくのだ。表現内容の客観的な価値というのを特定の人や集団が先験的に、あるいは特権的な地位をもって判断することはできないのだから、できるだけ表現そのものを制約してはならないという比喩です。


「精神界にも健全な精神なり言論という観念が存在しており、それはたとえば実名で上梓されているような健全な各種書籍、究極的には学校の教科書になるでしょう」

 究極的には検定を受けた教科書が健全な言論だ、そうお考えですか。

 結果として個々の教科書が健全な言論と言える場合もあるでしょうし、そう願いたいものです。しかし、〈国家による表現の自由に対する制約として、どのような制約が許されるのか〉という話題との関係では、それは循環論法になります。

表現の自由が保障されるべきというとき、その「表現」内容についての価値判断は先行しません。

(中略)

なぜかといえば、国家や社会が表現の価値を判定して保障されるべき表現のみを保障するというのでは、保障の意味をなさないからです。

*

 と既に述べました。

 また、「ネットの匿名言論」が不健全きわまりないというのであれば、realisteさんのコメントも私のも不健全ということになりますね。でも少なくともご自分の主張については、不健全だとは思われないのでしょう(思われるのなら、不健全な言論は規制すべきというお考えに沿って、ご自分で事前で自主規制されているはずですから)。だから「ネットの匿名言論かどうか」というのも有効な基準にはなりません。

 それに、ネットでは対抗言論が容易なので、なおさら表現の自由に対する制約の必要性は低下します。対抗言論 - Wikipedia


 現時点で既に、猥褻表現や名誉毀損、侮辱は犯罪とされており、プライバシー侵害についても民法上不法行為(民法709条、710条)として損害賠償や差止めの請求が認められています。これ以上法律での規制として何が必要なのか、ご自分でお考えになってみてください。

 「社会信義」「公共言論をよりよいものにする」という漠然とした公共の利益*は、表現の自由に対する規制の理由にはならないと思います。

 「個人の尊厳」のために規制が必要という問題意識なら理解できますが、その場合にも具体的な規制手段について緻密な検討が必要です。

 なお、一定の年齢以下の者に対しては、いまだ人格形成の途上にあり、可塑性が高いこと、十分な判断能力・行動能力がないこと、非難可能性が低いことなどの理由で、刑事責任が問えないことになっています。子供に対してはそういう理由でも、法律による表現の規制はかなり困難です。


 realisteさんのいうように、表現内容の客観的な価値は、実際には優劣が存在すると思います。ただ、それを私やrealisteさんといった、時代に拘束された生身の人間が事前に客観的に判定できるものではないし、ましてそれを強制すべきものでもないというのが私の考えです。以下の文章に近い考えです。

 それではその真理が掴めるか、掴めないか。この問いに対する答えが、ドラッカーと並みいる他の諸々の学識ある人々とを分ける。ドラッカーは、真理を掴むことなど、神ならぬ身の人間には到底なしえぬこととする。

(中略)

 唯一絶対の真理はあるし、その真理は人間が掴めるとする考えを、理性万能主義という。

(中略)

 これまで明らかにされたという自称真理のすべてが、その約束を果たしていない。諸々のイズムがその典型である。ブルジョワ資本主義がそうだったし、マルクス社会主義がそうだった。

「ドラッカー経営思想の原点」 企業経営2002 autumn

 私自身としては自分の考えはだいたい書いたので、反論があるならよければトラックバックなどでどうぞ。ただ、お互い時間の制約もありますし、それぞれ生活の優先順位もありますから、反論をどこまでも繰り返す義務もないし、最後に批判した方が「勝ち」ということもありません。

 上に引いた対抗言論 - Wikipediaから引用しますが、

高橋和之は、上述のジュリストの論文において、以下の旨も併せて論じている。「決して誤解してならないのは、相手が少なくとも一度は反論したにもかかわらず、批判者が同じ理由での攻撃を執拗に続け、その都度相手の反論を求めるかのごとくは、もはや対抗言論の域を超えるものであり、単なる「嫌がらせ」にすぎないものである。」

*

realisterealiste2008/03/31 13:28さっぱり意味が分かりません。
そもそも社会国家的公共の福祉とは、人間理性の特徴として「自由な行為としてはできるが、あえてしないことにより、よりよい社会を実現する」という自制の観念であり、これが経済と同様に表現についても当てはまることは直感的に明らかであり、この直感を覆していない以上、説得力は皆無です。
なぜ経済においては、独禁法や金融法で、自由国家的公共の福祉以上の制限をかけ、健全な経済社会を実現すると言っておきながら、表現についてはしないのでしょうか。
社会観念上、蓄積してきた言論に基づき、明らかに社会の健全性を損なうような言論は存在し、それは客観的に判定できるのであって、これは経済の場合と変わりません。
すでにsummercontrail氏が自白しかけたように、政治的な問題である「不満のガス抜き」を実現するために、無理矢理なこじつけ解釈をしているとしか思えません。いずれにせよ法の平面では実に不自然な解釈です。

summercontrailsummercontrail2008/03/31 21:08realisteさん、こんばんは。最初に
>そもそも社会国家的公共の福祉とは、人間理性の特徴として「自由な行為としてはできるが、あえてしないことにより、よりよい社会を実現する」という自制の観念であり
 とおっしゃっていますが、そもそも論の出発点からして、realisteさんのまったくオリジナルな見解なので、前提を共有できません。「自制の観念」だとするなら、個人が自制するにしろ、国家が自制するにしろ、国家が個人に強制はできませんよね。
 その他、いったんコメントのお返事を書いてみましたが、だいたい記事本文で既に述べてあるので徒労感があります。ご自分で修正の余地があれば先に修正してコメントを再投稿してください。

realisterealiste2008/04/01 16:54また逃げてるんですか。
要するに、表現の自由を解放しないとガス抜きができなくて経済競争に支障をきたすという政治的考慮があるからそんな理論構成にしがみついているんでしょう。
逃げてないでちゃんと答えろ。

summercontrailsummercontrail2008/04/01 22:19realisteさん、こんばんは。
 realisteさん、あのね、私としては毎回正面からできるだけ丁寧にお答えしているつもりです。何も隠れた政治的考慮とか経済的考慮などありません。この一連の話題に関する、私の最初のコメントをご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080316#c1205653338に、
>おそらくこれでrealisteさんの「疑問」は解けるのではありませんか。
 と書いたとおりです。
 (私の理解している憲法の枠組みからすれば、realisteさんの疑問はこういう部分についてのもので、こういうことをお伝えすれば、realisteさんのいらだちは解消されるのではないか)と思ってのことなんですよ。それだけです。

 ガス抜き論ですが、
>私はおよそ差別を正当化するものではありませんが、頭の体操としてはたとえば〈ある特定の状況においては、社会階級の分離状態の維持により社会の安定を図れば、殺人等のより重大な人権侵害の件数を少なく維持できるから、それが差別に当たるとしてもベターな手法だ〉という主張はあり得る
 と書きました。お読みいただければ分かるとおり、*頭の体操*として書いた内容は経済競争とは無関係です。経済競争のことなど私はまったく念頭にありませんでした。
 私は日本人として日本の経済的な繁栄も望んでいますが、それよりもずっと(日本人に限らず)個人の尊厳のほうが大事だと思っています。あせっても仕方がないので、事態が改善されるように、微力ながら寄付や投票や言論で貢献しようと努力を続けています。

 今回このコメント欄でrealisteさんが示された他の疑問については、既に記事本文で書きました。「さっぱり意味が分かりません」とおっしゃいますが、これでもわかりやすくと思って、推敲を繰り返し、何時間もかけて書いたんですよ。前の記事もそうです。このコメントも2時間近くかかっています(エイプリルフールの嘘じゃありませんよ)。どうか、もう少し労力をさいてお読みいただければと願っています。

 それでも「summercontrailの本心は別にある、こいつの言っていることは信じられない」とお思いだとしたら、私がいくら弁明しても無駄だということですよね。ならばこのへんでやめた方がいいように思います。詰問されても嘘はつけないので、realisteさんが望んでいるような内容の「自白」はできません。続けてもお互い嫌な思いをするだけです。
 今週は明日からかなり忙しくなるので、また何かお返事するとしたらしばらく空いてしまいます。大事なことはゆっくりと時間をかけて考えませんか。人間はできる範囲のことしかできません。できる範囲のことをしていれば十分だと思います。
 私を糾弾しても社会はぜんぜん良くなりません。私はrealisteさんと同じように、個人の尊厳をはじめとした憲法上の価値が社会に実現されることを望んでいる一人です。私はひょっとしたらrealisteさんとそれほど年齢が変わらないかもしれないし、社会的な地位もrealisteさんより低いかもしれませんよ。私は汚い大人の代表とか、醜い日本人の代表ではなくて、ただの人です。

realisterealiste2008/04/02 17:20ものごとには真実とお話というものがありましてね、いくらお話にはなってても真実が見え透いているということがあるのです。今の日本において、国民に真実が見透かされているのは公然の事実であって、お話をすることは馬鹿馬鹿しいのですよ。あらゆる物語は消滅した時代とも言われます。個人の尊厳などという、お話にとどまる絵空事はどうでもいいのです。
この現実に対してあなたがた支配者は何のコメントもしようとしない。ただごまかしているだけです。別の目的を達成するために。あえてくだらないお話をダラダラとおやりになるあなたはその程度ということです。お話をしていれば自分の地位が守れますからね。あなたはたんに地位を脅かされそうなので何時間もかけて憲法論をしただけです。普通の感覚からして自分がいかにくだらないことをしているか分かりますか。一国にとって全然エッセンシャルじゃないんですよ、こんなくだらない神話論は。
そろそろ、実態や政治面を直視したらどうですか。この国は政官財主導アメリカ経済至上主義なのですから。国民主権も個人の尊厳もありません。

realisterealiste2008/04/13 00:271 表現の自由規制の合憲性判定基準をいかに解すべきか。基準がなければ裁判所の憲法判断が恣意に流れ、人権侵害が容易になるため問題となる。

2 (1)この点、判例は、「憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべきである(最高裁昭和59年(あ)第206号同年12月18日第三小法廷判決・刑集38巻12号3026頁参照)。」などと解している。

(2)しかし、「合理的な制限」という基準は漠然としており、十分に具体的な基準とはいえず、判例の基準は失当と考える。

(3)思うに、表現の自由の価値は、自己実現および自己統治にあり、また、安易に規制すると萎縮する性質もあるため、これをできるだけ広く許容しなければならないが、無制限に許容されるわけではなく、公共の福祉の観点から当然に制限が予定されており、社会通念上、自己実現および自己統治にとって客観的に無価値であり、また、当該表現を規制しても萎縮につながらないような場合に、表現の自由の制限が許されると解する。(私見)

3 このような基準によれば、差別表現に当たる一定範囲の語彙の使用禁止は、自己実現や自己統治にとって無価値であり、また語彙の使用を禁止するだけならば表現が萎縮することは考えられないので、合憲となる。

以上

summercontrailsummercontrail2008/04/14 21:54 realisteさん、こんばんは。お返事が遅くなりましたが、http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20080414/realiste3で書きました。

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