![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() |
||
![]() |
夏のひこうき雲のsummercontrail(略して左近)が書いています。
+ - マ儿コの日記 - + - 左近さんへの返答
http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/20071021/1192978484
に、どうお答えしたものか考えあぐねています。
現時点でMarco11さんの考えがその記事を書いた時から変わっておらず、また、私の考えが聞きたいというのなら、応答の記事を書くんですが。でもたとえば、冒頭からして
あなたがたが罵倒と捕らえているのは私の他者に対する暫定的な評価の表明のことだと思います。
というのは、前回の記事をちゃんと読まれていないのではないかという気がします。ちゃんとと言っても、行間を読めとかそういうことではなくて。
私は前回の記事で
先輩方とか、私と他の人を一緒くたにしていることからしても、単純にモヒカン族で活動している人たちを一緒くたにして認識しているんじゃないかな。たとえばkanoseさんとかotsuneさんといった、他の有名なモヒカン族の方々とは書いているトピックや文体が全然違うので、いったん切り分けて考えてほしいなと思います。
と書いたので、それでも「あなたがた」と言われるのは、私と他に誰のことなんだろう。
そのほか、はっきり指摘とか反論をしていくとなんかすごいだめ出しになってしまうので、まったく気が進まないんですよね。
+ - マ儿コの日記 - + - twitterで感じたこと。仮面と甘え。つらいから読むなら自己責任で
http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/20071029/1193667586
のような記事をその後書かれているので、少しお考えも変わったのではないかと思うし、その場合私が逐一反論してみせる意味はほとんどないので、それもあって、なんだか気が乗らない。
よかったら、また現時点でのこのテーマについてどう考えているかお知らせください。
丁寧にお答えいただいて、ありがとうございます。
オーストリアの裁判の件でのリンクを読んで、私なりに考えてみたのですが、
「言論を裁くものは、言論であるべきだ。」
これ↑をもうすこし踏み込むと、
「だが、心は裁かない。」
それを、ネットでの議論の場で実践しようとしたのが
モヒカン的なやり方であると。
でも、コミュは必ずしも「言論」じゃないですよね?
そして「裁く」というのもそぐわない。
価値観はほとんどの場合相対的で、なにかを裁くために「正義」とされるものは、氏ね死ねにむかうらしいです。
しかしながら、死んだほうがいい言説もたしかに存在することがありますし。
そういう時はモヒカン全開でいいと思うんです。
そんなときに「思いやり」なるものを発動する必要は逆にないわけです。(ここで使った「思いやり」は、左近さんが書かれている、悪い意味での「思いやり」です。)
ここで、ちょっと反省。
私の「思いやり」という言葉がいけないのかもしれません。
なんか上から目線。
対話における、相手から目線とでも言い換えたほうが、適切であったのかも。
そして引用。
だから、「悪意」は、受け止められて、解きほぐされるべきかというと、ちょっと何ともいえません。私はむしろそうしようとしてきた(受け止めて解きほぐそうとしてきた)つもりです。ただ、それ自体が、正面から不快感は伝えずに、自分の感じた激しい不快感がそれとなく相手に伝わるような言動や、自分の不快感を陰で示す行動*3を行い続けるということ*を招きます。そうなると、もう手のつけようがない(そうと気づかなかったりして正面から誠意を持って応対していたら、ひどい事態を招いたことが何度かあります)。
ええと、人間ですから不快感というのはほんとによくあります。
悪意のあると思われる文章を目にすれば、しかもそれが自分にむけられたものであるなら、冷静でいることは難しい。
ただ、コミュの目的は不快感を伝えることではないですよね?
そしてまた、自問と反省。
「悪意を受け止めて、解きほぐすことのできる(あるいはそれが許される)人間とは誰のことなのだろう?」
なんだか、へんなコメントですみません。
でも、左近さんのお考えはとてもよくわかりました。
時間をかけて答えていただいて、本当にありがとうございます。
それと、大喜利も読みました。
揉め事パターンがすごくよく整理されていて、
参考になります。
Marcoさんのこと、私には「心をつかめ」というふうに聞こえるんですよね。なんとなくなのですが、言葉の扱いにばかり拘泥しても、心はつかめないよと。ただ、左近さんが言葉の扱いにばかり拘泥しているように見えるなら、それはちょっと誤解かも。
まとまらないですが、このへんで。
いつか、機会があったら、何に義理立てしているのか教えてください。
それでは。
>でも、コミュは必ずしも「言論」じゃないですよね?
>そして「裁く」というのもそぐわない。
>価値観はほとんどの場合相対的で、なにかを裁くために「正義」とされるものは、氏ね死ねにむかうらしいです。
ここはどうお答えしたらよいか、ちょっと考えあぐねていました。
意見交換というのはまさに言論だと思います。(感情交流としてのコミュニケーションは、この文脈においてはいったん度外視しないと、うなずき合いしか許されないことにもなりかねないので)
モヒカン族は他の権威によって屈服させたり、強制力によって「裁く」ようなことはしません(出てきた例でも、名誉毀損として相手を訴えたのは、アービング教授ではなくホロコースト否定論者のほうです)。
また、最後の行(「価値観はほとんどの場合相対的で……」)というのは、私が全然賛成できない考え方についてのお話だと思います。ここはきちんと書いておくべきなのですが、さしあたり、http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20050830#cでは
>(少なくとも)この日本の社会では、絶対的な価値基準というものがおよそ想定されないか、あるいは(むやみな価値相対主義の立場から)敵視されることが多いので、〈絶対的な基準の存在を想定するとは、自分を絶対視しているんだな〉〈自分の考えが絶対に正しいと思っているんだろう〉という誤解があまりにもなされやすいのです。
という表現で書きました。
>しかしながら、死んだほうがいい言説もたしかに存在することがありますし。
>そういう時はモヒカン全開でいいと思うんです。
私はそうは思わないんですよ。どうしても相手のことも「思いやって」しまうんです。
>そもそも相手の悪意を引き起こさないという優しさも(それが見下していることになりかねなくても)ある程度は必要なのだろうと思っています。やくざや暴走族に、正面からその愚を解いても、それがうまく行かないことは多いのでは
と、書いたとおりです。(愚を「解いても」は、「説いても」の変換ミスです)
>ええと、人間ですから不快感というのはほんとによくあります。
>悪意のあると思われる文章を目にすれば、しかもそれが自分にむけられたものであるなら、冷静でいることは難しい。
>ただ、コミュの目的は不快感を伝えることではないですよね?
というのはどういうお考えでそう書かれたのかわからなかったのですが、念のために書いておくと、私の中の不快感とか冷静さとか、そういったものはまるで問題ではないと最初から思っています。問題視しているのは、相手がもった不快感が、その人自身をも深く傷つけるということのほうです。
>いつか、機会があったら、何に義理立てしているのか教えてください。
ありがとうございます。
私の信念とか価値観というのは、私の信仰と切り離せないので、必然的に聖書やキリスト教の話になってしまいます。そういう展開をお嫌いな方も大勢いるということを、経験的にも知っているので、ギャラリーにも配慮するとちょっと書きづらいのですが、はい、機会があればまたそういうことを書きたいと思います。ここではなく「夏のひこうき雲」になるかもしれません。
亀レスすみません。
ええと、私ちょっと誤読箇所がありましたね。(^^;
だから、「悪意」は、受け止められて、解きほぐされるべきかというと、ちょっと何ともいえません。私はむしろそうしようとしてきた(受け止めて解きほぐそうとしてきた)つもりです。ただ、それ
自体が、正面から不快感は伝えずに、自分の感じた激しい不快感がそれとなく相手に伝わるような言動や、自分の不快感を陰で示す行動*3を行い続けるということ*を招きます。そうなると、もう手のつけようがない(そうと気づかなかったりして正面から誠意を持って応対していたら、ひどい事態を招いたことが何度かあります)。
私はこの「正面から不快感は伝えずに、自分の感じた激しい不快感がそれとなく相手に伝わるような言動や、自分の不快感を陰で示すような行動を行い続けるということを招く」のは、相手じゃなく
自分のほうだと考えてました。でも、カッコ内をよく読むとそれは誤読だとわかります。
左近さんが気づいて下さっているので、よかった。
よく読んでいなかったみたいです。私。すみませんでした。
「絶対的な価値基準」とは、論理と事実をもって問題を明らかにし、間違いを(相手のものであっても、自分のものであっても)立証する。ことを可能にする、理性の光みたいなもの?でしょうか。
「絶対」なのに「みたいなもの」はおかしいかもしれないんですが。
こう書くと、やっぱり裁判みたいですね。
もっとも(日本においては)立証されたかどうかは「裁判官の心証」によることになってますが。たぶん、左近さんの求めることは
この心証をお互いに共有できるように意見の交換をすることなのかなと思いました。
そして、「どうしても思いやってしまう問題」ですが、
私の結論というか意見をいうと、
それなら、思いやる必要は(原則として)ない。です。
なんで、原則として、かというと
たとえば言い方の問題とか、言う順番の問題とか、言い回しとか、
左近さんが、私のコメントに対するレスでなさったように「思いやる」のは、たぶんあったほうがスムーズだから。
つか思いやってもらったような希ガス。(^^)ありまとさんくすです。
左近さんの「思いやること」が上記のことだった場合、
成立しませんが。(汗
左近さんの意見交換には目的があるように思います。
すなわち、論理と事実をもって問題を明らかにし、お互いに合意するだけではない実りをうる事。
(場合によっては合意も実りかもです)この目的が共有できれば、なにも問題はないような気もします。
それでも、
>そもそも相手の悪意を引き起こさないという優しさも(それが見下していることになりかねなくても)ある程度は必要なのだろうと思っています。やくざや暴走族に、正面からその愚を解いても、そ
れがうまく行かないことは多いのでは
>私の中の不快感とか冷静さとか、そういったものはまるで問題ではないと最初から思っています。問題視しているのは、相手がもった不快感が、その人自身をも深く傷つけるということのほうです
という状況はある(あった)
ということは、相手が目的を共有する土俵にたっていなかったということで、意見交換の失敗はそのことに原因があるといわざるを得ないのでしょう。
悪意を受け止めて解きほぐすなんてことを、正面から相手に対して行おうとすることは、なるほど傲慢な振る舞いにちがいありません。だから、倫理上の困難さがあるわけで。それでも、相手の悪意を引き起こさないための思いやりは、ある程度必要。なのですね。
私は、「悪意はないほうが良いのではなくて、受け止められて、解きほぐされるべきものではないか」と、書きましたがそれは、少なくとも意見交換の場では慎重に運用されるべきなのでしょうね。
ほんの少しなにかほどけていくきっかけのようなものがあれば、人は打ち解けていくこともありますし、慎重に、お互いの利になるように「受け止める」ことができれば、そこから変わる可能性もある
でしょうし。
少し前に、ブ米で「語りうることは明晰に語りうるのだ」という言葉を目にしました。
そして私は大事なことを軽く見ていたのかもしれないな。と,
そう思いました。
まず、前回の私のコメント
(http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20071104#c1194790506)
の、恥ずかしい間違いの訂正をさせてください。
>名誉毀損として相手を訴えたのは、アービング教授ではなくホロコースト否定論者のほうです
というのは、名前を間違えていました。
モヒカン族的にホロコースト否定論者と議論したのは米国エモリー大学デボラ・リップスタット教授で、教授を訴えたホロコースト否定論者の名前がデビッド・アービングです。このコメント欄の元記事では正しく書いているのですが、前回のコメントではなぜか間違えてしまいました。失礼しました。
それから、誤読していたとうかがって私も腑に落ちました。私の書いた元の文、「自分」と「相手」ということばの意味がそこで逆転しているので、わかりづらかったと思います。どうもはっきり書けないので、すみません。
>「絶対的な価値基準」とは、論理と事実をもって問題を明らかにし、間違いを(相手のものであっても、自分のものであっても)立証する。ことを可能にする、理性の光みたいなもの?でしょうか。
絶対的な価値基準というのを文字通り説明するなら、人の生命、そのほかのもの、およそすべてのものの価値の重さや軽さを計ったり、価値を比べる基準になるもの、それが絶対的な価値基準だと私は考えています。(本当はもっと厳密に書きたいのですが、さしあたりこう書いても間違いではないと思います。)つまり、価値についての絶対的な基準です。
http://www.iot.ac.jp/manu/ueda/thought.htmlに掲載されている文章の、「この世に絶対の真理はあるか、というのがドラッカーの問いである。」以下の部分もご参考になると思います。
どうもこうしたテーマは、題材としてはコメント欄で応答を重ねるにはちょっと大きすぎますね。私としてはggg123さんとのやりとりは摩擦係数が低くてありがたいですし、考えが近い人との交流は楽しいのですが、コメント欄にお互いの長文が続くと、画面として読みづらくなってしまいます。ggg123さんもご自分のブログで書かれると、他の方のためにもなると思います。このモヒカン族グループに参加されてもいいし(よっぽどのことがなければ参加が認められるはずです)。
コメント欄の技術的な限界の問題は抜きにしても、ggg123さんの言葉には的を射抜く文学的な鋭さというかそういうセンスを感じるので、今後もお考えをうかがう機会があれば幸いです。
丁寧なお返事と、ブログへのお誘い有難うございます。
「ベッポ的」をぐぐってみて、少しだけ左近さんのこころのなかにあるであろうなにかが胸にせまってしまいました。
僭越でしたらすみません。
ドラッカーですが、私の家にも彼の本が何冊かあります。
私の本ではないんですが。
ご案内いただいたリンク先を読んで、またしても?
少し理解が浅かったなと思いました。
「敬虔な意志」とでもいうのでしょうか。
私はキリスト教について、ごく一般的なことしか知りませんでしたし、いまもわかってないと思います。
ですが、少しだけ、本当に少しだけその端っこを掴むことができたような気がしました。今まで結構長い間ROMを続けてきて、
こういう感触が何度かあって、月並みですが霧が晴れるような
そういう体験をさせていただいたと思っています。
で、ブログですが。
私は自分がキモイんですよ。
間違うことはたいして恐れていないんですが、自分が傲慢なのはほんとにキモイんです。ブクマも一日に4,5回は全部消そうかと思います。多分すぐになにかに嘘をついてしまうんでしょうね。
なので、ちょっと書けそうにありません。
ときどき、いっそ嘘ばかりを書き続けるみたいなことを覚悟してやってみようかなと思うこともあるのですが。
左近さんの、「とてもよくないことのような気がする」
の、理由も、私の勝手な思い込みかもしれませんが、その「とてもよくないこと」をあえてするための何かが、傲慢さを呼び込んでしまうし、それを知りつつもなお「意志」がそこに向かうというような葛藤があるのだろうなと。そう、理解しました。
お礼とご挨拶だけのつもりが、また長くなってしまってすみません。
とても楽しかったです。(^^)ありがとう。
もしまた、なにか聞きたくなったら、そのときは・・・
やっぱりコメントするかもです。(笑)
それでは。