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夏のひこうき雲のsummercontrail(略して左近)が書いています。
前者は、モヒカン族といえるだろう。ニューズウィークを読んでそのうち書こうと思っていたら先に書かれてしまったが、極東ブログ: 英国人デビッド・アービングがオーストリアで逮捕で紹介されている米国エモリー大学デボラ・リップスタット教授などまさにそう。
後者は、ムラビトといえるだろう(ムラビトの全員がそうだとは言わない、文の論理関係に留意して欲しい)。こちらの例もいくつか典型的なものを思いつくが引用も言及もしない*2。
表だって反対することは不作法だし相手の気持ちを傷つける。だからムラビトは表だって反対しない。
だが、反対意見を言わずにとどめ心の中でおし殺して忍ぶことで、不快感が内にこもり、怒りが募り、腐敗して憎しみと恨みとなる。袈裟が憎いということを曖昧にすることで坊主まで憎くなる。
思いあまって坊主まで憎まないための技術が、すなわち、「その袈裟は違う」とはっきり言うことだ。とも言える。
範囲を限定してあえて「否定」することで、相手という人間そのものを否定しないようにする、という在り方はもっと認知されていいと思う。
ここまで、
「モヒカン族」を一口に言えば、「否定しない」文化だ。
という文への反応です。もう少し書きます。
「否定しない」文化
というのは、やや語弊がある。むしろムラ社会のほうが「否定しない」文化だろう。表面上は。
モヒカン族は意見を否定しても人格を否定しない。(参照:モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動)
また、自分が他人の意見を否定するという行為は、それもまた自分の意見の表明にすぎないとわかっている。だから気軽に「その意見はここが間違っている」と「否定」する。
再び引用します。
「モヒカン族」を一口に言えば、「否定しない」文化だ。それは議論や思想におけるものであって、「ムラ社会」とは別次元のもの。しかし「ムラ社会宣言」は、「モヒカン族」を「ムラ社会」との「文化衝突」にまで矮小化してしまっている。「ムラ社会」も、「モヒカン宣言」からすれば認められてしかるべきものなのに。
確かに「モヒカン族」が「モヒカン族」として対話している以上、「ムラ社会宣言」のような考えは忌むべきものだろう。しかし、そもそもこういった対立が生まれたのも、「ムラ社会」の人が「モヒカン族」の対話に介入して「痛い目を見た」と思ったことから始まっている。しかしそれは「ムラ社会」が一方的に悪いのか。「モヒカン族」が「モヒカン族」として対話しているということを、正しく「ムラ社会」に伝えられなかったのが原因の一つにあるのではないか。『やっぱりモヒカンで手斧を持った連中がウロウロしているってのはちゃんと啓蒙したほうがいいような気がする。』(「モヒカン族 - モヒカン族」より)というのには諸手を挙げて賛成する。「モヒカン族」になりたくない人に「モヒカン族」になれというのは傲慢だ。
ここまで考えて、はたと思う。オレは「モヒカン族」か。「モヒカン宣言」を是とする人は「モヒカン族」か。ただ一つ、はっきり思えることは、「ムラ社会」とわざわざ対立するような「モヒカン族」にはなりたくないということだ。
簡単に書くために断言調にするが、ムラ社会はモヒカン宣言からすると認められないだろう。それはムラ社会が、自由に意見を戦わせることそのものを認めないから。
ムラビトとモヒカン族は意見が違う。そして「意見が違うことは、当然許容される」と考えるのは、モヒカン族の考え方。ムラビトは意見の違いを表沙汰にすることを激しく嫌う。“和”が大切だから。
そもそもこういった対立が生まれたのも、「ムラ社会」の人が「モヒカン族」の対話に介入して「痛い目を見た」と思ったことから始まっている。
いや、それだけではない。
ムラ社会はモヒカン族と対立しているだけでない、ムラ社会内部の人に同調圧力でもって「ムラビトになれ」と強制している。
ムラ社会のその息苦しさに耐えかねている人が多いからこそ、ことさらに社会に反発したりルールを破ったりする人がいると、アンチヒーローとしてもてはやされるのだろう。
もう一つ、私があいまいに思うこと。(1)アンチヒーロー的な、ことさらに天の邪鬼的な言動で関心を買おうとしたり喝采を求めたりする人にはなりたくない。その点では「ムラ社会とわざわざ対立」はしたくない。
(2)だが、ムラ社会の息苦しさを少しでも改善したい。という意味で中島義道『〈対話〉のない社会』203頁の以下に同感です。
何度でも言うが、私は祖国を現在の欧米の一国のように変革したいわけでは毛頭ない(絶対ならないから安心なのであるが)。私は、言葉を、〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけである。
モヒカン族が対立しているのは、ムラ社会の人ではなく、ムラ社会的価値観。だが、ムラ社会的価値観においては人と価値観はほぼイコールで固定されており、意見を否定されることは人格を否定されることとほぼ等しい(モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動でもその辺りのことを書いた)。
その意味では、ムラ社会とわざわざ対立しないと息苦しさは改善されないのかもしれない。
(3)かといって私は中島義道のような極端な言動をとろうとは思わない。相手の気持ちもまた一つの尊重すべき価値として考慮に入れつつ、それにとどまらずに、相手と違う考え方も示すことで、考えている対象についてより良い結論に近づいたり、より良いコミュニケーションを可能にしていきたいと思っています*3。
その一つの実践として今回inspfightmanさんの日記を思考の素材とさせていただきました。inspfightmanさん、どうもありがとう。