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     夏のひこうき雲のsummercontrail(略して左近)が書いています。

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2006-03-06

人の気持ちを考えろ 人の気持ちを考えろ - モヒカンダイアリー「アップル通信」 を含むブックマーク はてなブックマーク - 人の気持ちを考えろ - モヒカンダイアリー「アップル通信」


 「人の気持ちを考えろ」とか「人の気持ちを考えない人」という言葉は、

 〈人間は自分の考え間違いやミスを指摘されると不愉快な気持ちになる〉

 ということを前提にしていることが多いようだ。


 しかし、そうとも限らない。実際には、

 〈自分の考え間違いやミスを指摘されるとうれしい気持ちになる〉

 ということもよくある。そういう人もいる。


 考え間違いやミスを指摘されて喜ぶかどうかは、考えの焦点がどこかによると思う。言い換えると、その指摘によって言及されている事柄は何なのか、関心事は何なのか、ということ。


1

 もっぱら人間の能力や価値に焦点をあてて考える人は、考え間違いやミスを指摘されると不愉快になる。自分の能力や価値が遠回しにけなされていると感じるからだ。

 また、そのような考え方をする人が他人の考え違いやミスを指摘する場合は、他人の能力や価値について遠回しにけなすことが目的である場合も多くなると思う。相手という人間の能力や価値に考えの焦点があるから。


 そもそも、ある人の関心事が人間の能力や価値である場合、その人はものを考えるためというよりも、自分という人間の能力や価値を示すために言葉を発することになる。

 その場合、その言葉を否定してはいけないことになる*1。言葉に対する否定は、言葉を発した人の能力や価値を否定することとほとんど等しいからだ。

 また、その人に対して別の意味内容を持つ言葉を示すこともあまりよくない。元の言葉を発した人の能力や価値を相対化し、軽んじる事になるからだ。


2

 人間ではなく、もっぱら考えている対象や考え方に焦点をあてて考える人は、考え間違いやミスを指摘されるとうれしく思う。その指摘によって、もっと適切な考え方を行うことができるしもっと対象を適切に把握できるからだ。

 また、そのような考え方をする人が他人の考え違いやミスを指摘する場合は、もっと適切な考え方を行いもっと対象を適切に把握することそれ自体が目的である場合も多くなると思う。人間の能力、ましてや人間の価値などは関心事ではないので、「指摘がそれらを遠回しにけなすことになる」などとはあまり考えないからだ。

 そもそも、ある人の関心事が人間の能力や価値ではなくまさに考えていることそれ自体である場合、その人は自分という人間の能力や価値を示すためというよりも、ものを考えるために言葉を発することになる。

 その場合、その言葉を否定してもいいことになる。言葉に対する否定は、言葉を発した人の能力や価値を否定することとほとんど関係がないからだ。

 また、その人に対して別の意味内容を持つ言葉を示すことはとてもいいことだ。元の言葉の持つ意味内容を別の観点から眺め、相対化し、より深い洞察が得られる事になるからだ。


3

「1」で書いた考え方をムラ社会的思考、「2」で書いた考え方を「モヒカン族的思考」と呼んでいいだろう。

 面倒なので説明をはしょるが、HTML形式でメールを送る人にどう反応するか(あるいは反応しないのか)ということが一つの典型例になると思う。


 もちろん、ある人にムラ社会的思考とモヒカン族的思考のどちらかが備わっていればもう片方はないとか、そういうことではない。どちらの思考形態も一人の人に混在しているのが通常だろうし、どちらの思考形態がより前面に出てくるかもそのときの状況や経緯によるだろう。


 なのに〈人間は自分の考え間違いやミスを指摘されると不愉快な気持ちになる〉ということだけを前提にして「人の気持ちを考えろ」と言う人がいたとすれば、その人は、

〈自分の考え方=ムラ社会的思考と違う考え方も世の中にはあって、その考え方にも充分に理がある〉

 ということを知らない人だと思う。

 なのに、私が見るところでは、「人の気持ちを考えろ」という言葉にはたいてい

 「違う考え方を許容できない奴め」

 といった言葉を伴うことが多い。つまり、違う考え方を許容できない人が、「違う考え方を許容できない奴め」という罵倒を相手に向かって行うことが多いように思える。たぶんここには誤解があって、「違う考え方(の人間)を許容できない奴め」という意味で言われているのだと思う。と、ここで話はモヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - メタモヒカンと地べたと対話につながります。



4

 人の気持ちを考えることは重要だ。

 しかし上記のように、言葉の受け手の気持ちは多様なので、ある言葉によって傷つくかどうかを言葉を発する前に知ることはできない(あからさまな人格非難は別として)。

 また、言葉の送り手の気持ちも多様なので、送り手がどういう気持ちで言葉を発したかについて考えずに激しく抗議するのは、「人の気持ちを考えない」行動だ。激しく抗議しなくとも、激しく心の中で憎むのは相手の気持ちを考えない行為だ。

 さらに、場合によっては、言葉の送り手や受け手の気持ち(を傷つけないこと)よりも優先すべき価値が存在する*2


 じゃあどうすればいいのか、というところで止まる。止まるというのはここでその人の考え方があらわになるということ。

 私自身は、まず言葉を発してみて、お互いの認識に食い違いがあるかどうかを探り、不愉快になったかどうかを伝えあえばよいと思う。だがこれ自体が相当モヒカン族的な思考に思えるのでたぶんムラ社会的思考の人には通じない。

 ムラ社会の人が相手に不愉快な気持ちを正直に伝えるなら、「あなたの指摘した内容はいかにも正しく思える。しかしあなたの指摘は遠回しに私の能力や価値をけなしているように思えるし、実際結果的におとしめている。あなたが意図していたしていなかったにかかわらず、私は不愉快に感じた。もしその意図がなかったなら今後は控えて欲しい」と言えばいいのだろうが、このようなことを言うのはまったくムラ社会になじまないだろう。日本語の表現としてほとんど奇異に感じるほどだ。


 ムラ社会的思考からくる解決法は、たぶん、正面から不快感は伝えずに、自分の感じた激しい不快感がそれとなく相手に伝わるような言動や、自分の不快感を陰で示す行動*3を行い続けるということになると思う。(直接伝えられない分、不快感は余計に激しくなっている。)

 「正面から不快感を伝えるのは相手の気持ちを考えない行動だ」という理由によるのだろうけど、その遠回しな行動は実際には相手の気持ちをたいへん傷つける行動だと思う。これはムラ社会的な思考をとっていても、モヒカン族的な思考からしても、たいへん傷つくだろう。議論の相手とすら見なさないわけだから。モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 村八分、google八分、アカウンタビリティ(≒説明責任)

 ムラ社会的な思考は、こうして、ホンネとタテマエは違うという人間観を伝染させていくのだろう。

 なんとなく書き始めた話が長くなった。ブラウザ編集画面で書くのはいつもスリリング。

*1:と、ここでは単純化した話にする

*2モヒカン族はこのことに自覚的なのであまり「人の気持ちを考えろ」などと言わないのかもしれない。つまり、「人の気持ち」もまた考慮され尊重されるべき価値のうちの一つにすぎないと考えているので、ことさらにそのことだけを情緒的に持ち出すのを忌避しているのかもしれない

*3:ほうきを逆さにたてておくとか

summercontrailsummercontrail2007/03/24 13:44記事中の「考え間違い」という表現は熟しておらず、ほとんど間違いに近い言い回しであることを、今更ながらここに書いておきます。
 「考え違い」という表現には、規範的評価に基づく非難を含むニュアンスがあるので、その点から派生する別の問題を避けようとしたためだったかもしれません。

サザンのサザンの2007/07/16 16:39言っている内容は興味があるけど
難しい内容を抽象的な概念で説明しているのでわかりずらい。
20点(100点中)

summercontrailsummercontrail2007/07/16 17:37サザンのさん、はじめまして。ご自分でおっしゃっている通り、サザンのさんには内容自体が難しかったかもしれませんね。書き方はこれで十分わかりやすさと知的刺激のバランスがとれていると思っていますが、今後も工夫します。ご意見ありがとうございました。

ggg123ggg1232007/10/26 13:07左近さん、はじめまして。
私はモヒカン的な思考についてほとんど何も知らなかったんだなあと、このエントリを読んでそう、思いました。
もし、モヒカンのかたがたがみんなこのエントリにあるような考え方で議論を行っていたとすれば、諍いは起きようがないような気がします。
けれどもあなたが「悪意ととる感性」に「敗北」したのは
実際に諍いが起きて、それに疲れ果てたということなのだと私は考えています。
それはやはり、モヒカン的な思考を持ち得なかった(標榜はしていても?)村社会的な思考の人々に、ここに書かれてあるような交流の仕方はことごとく(少し誇張)「悪意」ととられてしまったから。というのが、あなたの現在のところの認識なのでしょうか?

私がどうしてはじめてにもかかわらずこんなに長いコメントを書いているかというと、あなたの本家ブログの「幸福の王子」カテゴリにある文章に「思いやりを以って接することは、相手を思いやりの必要な人として下に見ること」(ととられる可能性があるからきをつけないと。というニュアンスではなかったと読めました。)
があったからです。

私は、テキストによるコミュニケーションで一番大切なことは、相手の立場に立って一度は読むことだと思っています。そして、それがいわゆる「思いやり」だと思うので、ちょっと違うなという感じがしたんです。

どんなテキストにも(罵倒にも)その言葉を発する元になった思考なり、感情なり、目的なりが必ずあると思うのですが、そこのところを受け止めないと、相手に届く言葉は出てこないと思うのです。

これは、技術というのとも少し違うような。「構え」みたいな?

それとも、この受け止めようとすることそのものが「相手を下に見る」ということだとお考えなのでしょうか?

私にはあなたが、非常に厳密に公平たらんとしている人のようにみえます。へんな言い方ですが、自分以外の何かに義理立てしているような感じを受けます。そしてたぶんとても繊細なものを核にして、傷つけたり傷つけられたりすることについての強い拒絶と、その根源としての「悪意」に対する強い怒りをお持ちなのだなあと。

でも、傷つけられたと感じたら、誰でも怒ります。そして悪意を持つこともある。「悪意」はないほうがいいのではなくて、受け止められて、解きほぐされるべきものなのではないでしょうか?

私はあなたにわかってもらいたくて書いていると思います。つまり自分の考えを押し付けようとしています。それに、たぶんあなたの考え方のほんの一部しかわかっていないと思います。思いやりなどといいながらです。私は自分が偉そうだなあと、いまこの瞬間も感じています。ですから、あなたが私のコメントを読んで、そう思ったとしてもそれは間違いではないし、そう表明されても私が傷つくことはほとんどないので、(あったとしても自業自得なので)どうか気にしないでください。

いまのところ私は自分自身のなかの「悪意」なるものを自分で解きほぐすのに精一杯という状況なので、いつもはブクマコメントまでしか書けないんですよね。だけど、聞いてみたい。

長々すみません。

どうかよろしくお願いします。

summercontrailsummercontrail2007/10/26 22:29ggg123さん、はじめまして。丁寧に読もうとしてくださっていて、うれしく思います。いただいたコメントを何度か読み返しました。ちょっと込み入るので、別の記事の形でお返事を書かせてください。(私の悪いくせで、大事なことを書くときにはどうも間が開いてしまうのですが、今回はなるべく早くと思っています。)

ggg123ggg1232007/10/27 00:31左近さん、こんばんわ。(^^)

私は比較的暇な人なので、いつでもかまいません。それと、土日は
たぶんレスできません。(普通と逆だぁ)私も亀レスが得意ですのでゆっくりいきます。

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