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夏のひこうき雲のsummercontrail(略して左近)が書いています。
モヒカン族*1が心がけるべきは事実と評価を区別し、そのそれぞれについて慎重に見定める姿勢だと思う。
いや、モヒカン族に限らない。これはムラ社会においても当然必要なはずだけど、モヒカン族の方が上に書いたポリシーを意識しようとするはず(と書く私は少なくとも心情的にはモヒカン族寄り)。
すぐ上の文は話が逆で、むしろ〈事実と評価を区別し、そのそれぞれについて慎重に見定める姿勢を意識する〉という態度はモヒカン族の定義の一要素としてもいいんじゃないか。
2、3か月ぐらい前からだったかな、そんなことを漠然と考えている。
たとえば……具体例を挙げないと「例えば」にならないのか。
ここで「AさんがBさんのCという言動についてDといった」というEさんの文章を読んだとする。という例についてちょっと書いてみたけど、複雑になりすぎるのでやめ。逆方向から積み上げてみる。
と思ったけどそれもやっぱやめ。長くなる割りにあまり理解の助けにならなさそう。
この事実と評価、というのはなんとなく思いついたことなので「事実」と「評価」という用語が適切なのかどうかわからないし、そうとうおおざっぱな概念だと思う。少なくとも「評価」という用語の意味内容に「論理展開」から「発言主体への価値評価」まで含めるのはかなり問題があるだろう。
ただ、物事を考える上で、あるいは生活の中で、あまり感情に振り回されないで過ごすことや自分の思考過程をクリアにするためにはけっこう役に立つと思う。
少し踏み込む。揉め事というのは大抵事実認識の大きな食い違いがある。
その、「事実認識に大きな食い違いが存在する」という事実について認識しないまま、「(この事実についてこう評価するとは)Aさんはひどい人間だ」と評価を加えてしまう。かっこ内はたいてい明示されない。自明のことと思っているから。
だから基本的なところ(「何を根拠に」「なぜ」そう思っているのか)から互いの認識を確認していけばいいのだけど、その試みがなされていないか、あるいはうまくいかない。
感情に振り回されている人は、単に事実(と自分が思っている事柄)のみを指摘して満足するか、あるいは評価(という名の下の単なる人格罵倒)だけを言明する。そのような人は、〈ある「事実」について複数の「評価」が成り立つ〉ということを理解していない。
もちろん、逆は成り立たない。〈事実のみを指摘している人のすべてが感情に振り回されている〉ということにはならない。こうしたロジックも事実誤認を避けるための重要な道具だと思う。
モヒカン族 - モヒカン宣言に、「ツッコミビリティ」として
校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。
という一文があるが、モヒカン族としてはどちらかといえば冗長さを「あまり」避けない方が正しいのだろうと思う。「ソースと推論過程を明確化し他へ示」さないと、なかなか議論にならない。議論というか、対話による相互理解と止揚への試み*2の前提を欠く。
ただ、モヒカン宣言を修正するほどのことではなく、単に「エレガント」や「冗長にならない範囲で」という表現がムラ社会では誤解されやすいというだけのことに思える。
ムラ社会のボスが意味不明な片言隻句を発すると、周りがその意向を忖度して一生懸命動き回るでしょ。それはけしてエレガントではない。
いろいろな事柄が私の頭の中でつながっているので、今回のように話題を絞って書こうとしてもその説明の中でこうしてどんどん長く話が複雑になってしまう。
というのは私の文の読みにくさやブログ運営の下手っぴさの言い訳であるとともに、あほなのでテーマを切り分けることが下手であることを改めて読者のかたがたに知っておいて欲しいというお願いでもあります。温かい目でみてちょ。