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2005-09-17

人格/思考様式/言動 人格/思考様式/言動 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 を含むブックマーク はてなブックマーク - 人格/思考様式/言動 - モヒカンダイアリー「アップル通信」


  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの

 私が誰かと向き合うときには、おおよそ上のような3つのレイヤーに分けて相手のことを認識している。3と2を区別して考えることが重要だと思っている。

 ここで「誰かと向き合う」というのは、文字通り対面してという意味に限らず

  • ある人やある言動について思うとき
  • ある人とコミュニケーションするとき

 といった広い意味で理解してほしい。

 この記事では上に示した3つの層を混同してしまうことで起こるトラブルについて、少し書いてみたい。追記:後で文を補ったりしているうちに流れがわかりにくくなった点について、insタグで少し補いました。

1

 具体的な言葉や行動については、遠慮ない指摘や批判、議論が可能だと思っている。人格への評価と個々の言動についての議論が別であるということは、モヒカン族グループの話題を負っている皆さんなら既にご理解いただけているだろうし、モヒカン族ってなに?というかたも「罪を憎んで人を憎まず」という言葉はご存じかと思う。

 モヒカン的な指摘ハンドアックスなどはこうした事柄、つまり具体的な言葉や行動、事実誤認の端的な指摘などについて、最も効果を発揮すると思う。私自身も遠慮なく指摘や反論、補足などをしてほしいといつも思っている。


2

 思考のパターンや発想、世界観については、少し難しいが、やはり議論や考察が可能だし、なされてよいと思っている。なぜなら思考のパターンや発想、世界観は、対話によって後に変わるものであって、人格とイコールでつながっていたり生涯変えられないようなものではないと私は思っているからだ*1

 この対話のことは人によって啓蒙と呼んだり洗脳と呼んだりオルグと呼んだりするが、私は、「対等な関係でのあくまでフェアな手法によるコミュニケーションが望ましい」という点を強調する意味で「対話」と呼ぶのがいいと思っている。

 思考のパターンや発想、世界観について議論や考察が可能だし、なされてよいと思うのはなぜかというと、誤った事実認識や、適切でない*2言葉や言動をくり返しがちならば、その原因として、ある種の思考のパターンが背後に存在することは充分あり得るからだ。その、背後の存在である思考パターンについて議論や考察を行うことは、抜本的な対策を考える上でたいへん有効だ。

 もちろん「誤った」とか「適切でない」というのは、その言動に対する一つの観点からの評価にすぎず、その観点の客観性や正当性を基礎づけるものはまた別に存在することになる。さしあたりはそのような価値相対主義的なスタンスをとるのがフェアだと思う。

 しかし、(ある言動に対して評価を下している)観点そのものも評価や議論の対象になるわけだから、やはり議論が可能だとした方がよい。対等なプレイヤー同士で相互にまた自ら(前提となる思考パターンについて)考察を行った方が、より望ましい思考パターンや発想・世界観に到達できるからだ。


 別の言い方をしてみる。

 個別の言動について際限なく事後的に是非・当否を述べ合うよりも、その背後のパターンを対象とした方が事前に言動を制御可能になる。

 また、是非・当否を判断する上での思考パターンなども考慮に入れないと、個別の言動に関する議論の前提が曖昧になる。


3

 その人のコアな部分、人格そのものについては、これは他人が*3どうこう判断して評価するべきものではないと思っている。

 また、他人にも本人にも、ある個人のコアな部分、人格そのものに対して評価や判断を行う能力はないだろう。

 これはもはや神の領域に属することであって、同じ人間が「お前の価値はこれこれ」「私の価値はこれこれ」と判定できると思うのは相当傲慢だと感じる。


4

 私の認識はおおむね上のような構造。だが、ムラ社会においては相当異なるようだ。

 どうやらムラ社会では、漠然と

  1. 言動(≒タテマエ)
  2. その人の本質・コアな部分・人格そのもの(≒ホンネ)

 という2段階で捉えられているらしい。しかも「言動」と「コアな部分」はほぼダイレクトに結合していて、その結合の仕方にばかりもっぱら意識の焦点が当てられているように感じる。具体的には「言動と内心は違うことが多い」というバイアスが、人格そのものについての判断基準となることが多い。


 だから、個々の言動について指摘することがすなわち人格そのものに対する非難と受け取られてしまい、ひどい怒りを感じさせてしまう。

 その結果反撃として、人格そのものに対する罵倒の表現が用いられる。その場合も(反撃として)罵倒をする側の意図としてはそれほど不釣り合いな行為ではない(人格非難の「ホンネ」を隠した指摘に対して、同じく人格非難を返しているのだから)。


 あるいは、実際に、相手の人格そのものをおとしめる目的で個々の言動について指摘を行う人もいる(その人がムラ社会的思考に陥っている場合)。

 その戦略はムラ社会においてはかなりの有効性を持つ。なぜなら、ムラ社会においてはある人の人格そのものや価値・ホンネは、外面的な評価・「世間様」によって決定されるので、外面的な評価の言明はその外面的な評価の一つとして大きな効果を発揮するからだ。

 Aさんに対する悪意を持ったBさんからの指摘に対して(AさんまたはCさんが)反論すると、反論を受けたBさんは人格を非難されたような怒りを覚えることが多い。Bさんの頭の中では、「AさんまたはCさんもムラ社会的発想で行動している」ということが無自覚の前提になっている場合が多いからだ。

 つまり、(自分が嫌味で言うような事柄だから、他人も嫌味で言っているのだろう)という類推を無意識のうちに行ってしまっているせいで、個別の言動についての指摘をただちに人格非難として受け取ってしまう。


5

 以上の考察は、私の中では冒頭に挙げた「思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観」についての話。

 だが、ムラ社会においては以上の話全体が、人格非難的に理解されることだろう。

 ムラ社会の別の特徴として、発想の均一性・同質化の強制とでも呼ぶべきものが挙げられる。そこでムラ社会的思考パターンに陥っている人は、ムラ社会とは全く異質な、しかも一貫性とそれなりの秩序を持った思考様式が現に存在することを否認し、憎む(キリスト教徒や一向宗門徒に対するかつての激しい弾圧と虐殺を想起してほしい)。

 このことは、ムラ社会が変わることは相当困難であることを強く示唆している。なにせ、他の価値観の受容を激しく拒絶することこそムラ社会の大きな特徴だからだ(「和魂洋才」などというのもそれ)。


 だから、(単純な事実誤認も含めて)個別の言動に対する指摘が著しく困難であることは今後も変わらないだろう。相互の議論は深まらず、みなが黙っている以上、制度などの「公けの」存在はほとんど変わらない。ときおり間欠泉のような心情倫理の暴発があっても、その気持ちが汲まれるだけで、その言葉から学ばれることはあまりない。(この段落は読みづらさを軽減するためにやや断定的に書いている。実際にはもう少し事態は明るいとは思っているが、全体としては上記のように現状維持だろう)


 一つ何か望みというか、改善に向けての方針があるとすれば、悪意をこめた指摘や皮肉はできるだけ避けるということだろう。結城浩さんが「ネットでは単純な表現が皮肉なのか何なのかわからないから自分はできるだけ皮肉のようなものは書かないことにしている」というようなことを書かれていた。

もし二重の意味の表現を操るアクロバットを楽しみたいのなら、 「正しい知識」と「励まし」を同時に相手に伝えるような方向に努力をしよう。 少ない言葉だけでも相手を本当の意味で喜ばせ、励まし、力づけ、なぐさめる。 そんな言葉を生み出せるように知恵を使おう (もしクリスチャンなら、神さまにそのことを祈ろう)

*

 上の引用の元の文章「皮肉について」はぜひぜひ(クリスチャンでない皆さんも)読んでみてください。この「モヒカン族」というはてなグループ内ではモヒカン族 - ハンドアックス研究者、結城浩のメタモヒカン日記 - 殺伐≠皮肉でほんの短文で書かれています。

 私もこれを数年前だったか読んで強く共感してから、できるだけそのように心がけている。どうしても皮肉と読めてしまいそうなときには「これは半分皮肉ですが、半分は実際にそう思っています」などという但し書きを書いている*4

 単純な意見交換において(これは悪意の現れなのかな)という恐れを抱かせないためには、「少なくとも(例えば)summercontrail、略して左近と名乗っている人は皮肉は言わない」という信頼感を抱かせるのがよいと思う。これは個々のコミュニケーションの実践を通じて示していくよりないし、理解しない人は理解しないままだろうから遠回りではあるけど。


 そして、話はかなり戻るけど、言動と人格そのものをダイレクトに結合させずに

  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの

 というような認識の仕方をすれば、自分自身が悪意や怒りを抱くこともかなり減るだろうと思う。したがって人に皮肉などを言わなくても済むだろう。

 ただ、自分は抱かなくても、相手から激しい悪意の表れとして皮肉を言われることはあるわけで、その悪意を抱いた相手とまじめに向き合うのは意義深いながらも少々しんどいと思うことは多い。

 さしあたりこの記事で書いたような混乱や摩擦を避けるためには、できるだけ個々の事柄についての言及にとどめて、できるだけ踏み込まないでおくというのを意識するのがよいのだろうと思う。

 もちろんそれでも摩擦や行き違い、相手の不必要な怒りを避けられない場合はある。それは仕方ないと思っている(話が行ったり来たりで読みづらくてすみません)。


関連する(と私が思っている)他のかたの記事

*1ムラ社会的世界観においては変わらないととらえられがち。後述するがムラ社会では世界観が変わらないというか変えたくないので、自分も変わらないし、そのことから他人も変わらないという誤った推測を行うことにつながる

*2ポリティカル・コレクトネスなどの狭い意味ではない。「他の人から見て」というような含意も含めていない(日本では外面的な評価がたいへん重要なのでこの含意がしばしばみられるが)。単純に「適切でない」つまり「ふさわしくない」だとか「よくない」という観念上の意味にとって欲しい

*3:そして、本人も

*4:「半分皮肉ですが」と書いているのは、おそらく皮肉に読めてしまうとわかっていながら書いてしまう自分の感覚に対する率直さの表れでもあると思っているが、同時に、結果的に心がけを常に実践できていない自分への戒めとしても働いている

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