地図の記述

2005-07-12

自分で自分にハンドアックスを投げる

id:nisemono_san:20050711#p2から。

従って、(2)から、我々が誤字脱字を行う場合、少なくとも、「相手が嫌う」ような指摘をしてはならない。もし、このことによって否認されたとするならば、単純に、我々のコミュニケーションの方法が悪かったということになる。

これはコウガイ社会の定義として、二つの点で弱いなあ。

  1. ムラ社会と誤解されがち
  2. なぜ、相手のコミュニケーションスキルが弱いと言えないか?

(1)の問題点がどうして起こったか

  1. 「嫌う/好き」という言葉はムラ社会の判断基準であって、コウガイ社会の判断基準として適応すると、見分けがつかなくなる可能性がある。
  2. 恰もコウガイ社会ムラ社会とトシ社会を繋ぐ「掛け橋」みたいなバイアスがかかっていたこと。つまり、道徳性を与えたために、失敗が起きている可能性がある。

(2)の問題点がどうして起こったか

  1. 「相手」の中身が、文字通り論争している「相手」と、コウガイ社会特有の「観客」という二つにまたがっていることに原因がありそう。
    1. ムラ社会にとっては、「観客」は「仲間」しかない*1
    2. トシ社会にとっては、「観客」という概念を持つ必要が無い。
      1. 何故なら、「正しさ」というのはそれに賛同する数ではない。これを認めてしまった場合、トシ社会住民はムラ社会住民になってしまう(?)。
    3. (1-1、1-2)から、ムラ社会及びトシ社会には「観客」という概念が無いことが論証される。
  2. だから、「相手」と考えた場合、「観客重視」のコウガイ社会住民と、「相手重視」のコウガイ社会住民がいるってことだな。
    1. 前者は芸人になるのに対して、後者は仲裁人(あるいはまとめ人)になりやすい気が。
  3. 問題としては、なぜコウガイ社会には「観客」という独特の概念が発達したかという説明が必要。

頭に刺さったハンドアックスを抜いてみる

id:nisemono_san:20050712#p1から

「嫌う/好き」という言葉はムラ社会の判断基準であって、コウガイ社会の判断基準として適応すると、見分けがつかなくなる可能性がある。

id:nisemono_san:20050711#p3の定義だけでは足りなくて、さらに判断基準が違うということで通りが良くなるのかな。

ムラ社会
人そのものに重視を置き、且つ「好き/嫌い」が判断基準として使われる社会
トシ社会
言葉そのものに重視を置き、且つ「正しい/間違っている」が判断基準として使われる社会
コウガイ社会
人と言葉との関係性に重視を置き、且つ「楽しい/楽しくない」が判断基準として使われる社会

こうするとすっきりなりそうだけども、そうなると、「楽しい/楽しくない」というのが何処から出てきたのか、ということが課題になりそうだ。しまった、更に抜けなくなった!

ハンドアックスのサビを取り払ってみる

id:nisemono_san:20050711#p4から

そうなると、コウガイ社会ムラ社会の延長上といえるのか?

というのは、次の様に直したほうがいいのかもしれない。

  1. コウガイ社会は、ムラ社会技術化したがらない「コミュニケーション」をハンドアックスとして磨くため、コミュニケーションスキル原理主義が多い
    1. ただ、このコミュニケーションスキルの磨き方は、明確に伝えることが出来ない為、「半年ROMな」になりやすい
    2. 1により、コウガイ社会の住民は、トシ社会の住民からの視点で見ると、ムラ社会の住民とみなされやすい
    3. 1により、コウガイ社会の住民は、ムラ社会の住民からの視点で見ると、トシ社会の住民とみなされやすい

コウガイ社会の住民は、ムラ社会の住民からの視点で見ると、トシ社会の住民とみなされやすい

id:nisemono_san:20050712#p2より、ムラ社会の住民は「好き/嫌い」を判断基準として重視する一方で、コウガイ社会の住民は「楽しい/楽しくない」の判断基準を使う。

だとすれば、ある物事には四つの判断が出来る。

  1. 好き/楽しい
  2. 嫌い/楽しい
  3. 好き/楽しくない
  4. 嫌い/楽しくない

(1)と(4)は問題にならない。ただし、(2)と(3)は問題になる。ただ、(3)は例示が挙げられないため保留。(2)は簡単で、下ネタ及び不謹慎ネタが挙げられる。道徳的には嫌だが、笑ってしまうといったようなパターンだ。ここで、ムラ社会住民は、コウガイ社会住民をトシ社会住民としてみなしてしまう。

となると?

id:nisemono_san:20050711#p4

似非モヒカン族はそもそもムラ社会から疎外されているから、トシ社会に居付こうとするのだけども、本来ムラ社会に生きたい為、トシ社会ムラ社会化してしまおうとする。そこで困ったことに、コウガイ社会に行こうとするのだけども、ムラ社会に疎外された経緯を推測すれば、コウガイ社会が望むような「空気」の読み方を習得しているとは思えないため、本気になったりして呆れさせることしばしば。

むしろ似非モヒカン族はコウガイ社会に生まれやすいということだな。だから、住民割り当ては次のようになるな。

ムラ社会{ケイタイ族(最先端)/反モヒカン族}

↓↑

コウガイ社会{イロコイ族(最先端)/メタモヒカン族/似非モヒカン族(亜種)}

↓↑

トシ社会{モヒカン族/擬似モヒカン族(亜種)}

*1ムラ社会キーワードより。「ただ単純に自分の周辺に存在しているというだけの無意味な条件だけで「仲間」と認識する」

2005-07-11

ムラ社会vsトシ社会

だな。トシ社会の基本的要素は次のように挙げられるな。二項対立?だ!

  1. 周囲にいる人々は信頼が出来ない。というのは、相手はどのように考えているか解らないからだ。そして、相手はもしかしたら自分を騙す意図があるとも考えられる。従って、自分しか信用が出来ない。
    1. 個人は、「人」だから同じ意識を共有しているのではない。それは、「私」による視点の差異を隠蔽する。「私」が「あなた」になれない限り、「私」と「あなた」に差異があることを出発にして考えるべきであり、予め「人」だから、同じように考えているという視点は慎むべきである。
  2. 私の周りにいるからという理由で「仲間」ということはできない。なぜならば、(1.1)で論じたように、我々にはどうしても「私」と「あなた」という違いが含まれているのであって、その吟味が先ず必要である。
  3. 他人との関係を「嫌っている、好んでいる」というので区別してはならない。それはただの甘えだからである。確かに(1)において、自分しか信用できないと論じたか、しかし「自分」には間違いが存在している。この間違いを認識するために、「他人」がいるのであり、例え、相手が私を嫌っていたとしても、この間違いを指摘してくれる以上、真摯に受け取らなくてはならない。
    1. 従って、誤字脱字及び事実確認が行われたとしても、それを相手が嫌いだということで否定してはならない。まさに、他人によって、私の間違いが正されるとするならば、これを受け取らなくてはならない。
  4. 個人と言説は無関係であり、例え何かの趣味が否定されたとしても、それを所持する個人が否定されたことにはならない。というのは、個人とはまさにその趣味だけではなく、全体的に評価されるものであるからだ。

んで、もう一つの社会弁証法的に現れる。それがコウガイ社会だ!

  1. 確かに、周囲のいる人々は信頼できないかもしれない。しかし、だからといって、ただ切り捨てるだけでは非情すぎる。我々は社会的関係によって生きているのであるからだ。だからといって、ムラ社会にも戻れない。問題は、その関係性を如何にゆるやかなものとして構築できるかということに関わっている。
    1. 「私」と「あなた」に差異が生まれることは間違いないが、それにあからさまに還元しすぎていないだろうか?「私」と「あなた」には差異がある。しかし、これを主張しすぎれば、そもそもコミュニケーションが出来るという自体が理解できなくなる。コミュニケーションが出来るということは、少なくとも「私」と「あなた」に差異ではない部分があるということを認めうることができるのではないか?
  2. 確かに、理想形態として、その言説のみで指摘されることは十分にいいことであるが、否定しがたい事実として、我々には感情がある。感情があるわけだから、例え「嫌っているか、好まれているか」で別けてはいけないにしろ、それによって認識が歪められたりすることがある。従って、我々は、その事実を無視することは出来ない。
    1. 従って、(2)から、我々が誤字脱字を行う場合、少なくとも、「相手が嫌う」ような指摘をしてはならない。もし、このことによって否認されたとするならば、単純に、我々のコミュニケーションの方法が悪かったということになる。

従ってー

ムラ社会
人そのものに重視を置く社会
トシ社会
言葉そのものに重視を置く社会
コウガイ社会
人と言葉との関係性に重視を置く社会

んでだ

よって、住民割り当てとしては…

ムラ社会{ケイタイ族(最先端)/反モヒカン族}

↓↑

コウガイ社会{イロコイ族(最先端)/メタモヒカン族}

↓↑

トシ社会{モヒカン族/擬似モヒカン族}

ということになるのかなぁ。