地図の記述

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2005-07-14

応答

id:nisemono_san:20050713#cより

d:id:riry6

あ、もしかして「倫理」を単一なものだと捉えているのでしょうか?

違います。ここではその問題には触れません。

何故恣意的だといけないのですか?もし、倫理の定義(2)を受け入れるならば、その規制は恣意的なものにならざるを得ないのではないか。もし恣意的になるとするならば、それは実質、なんでもできるということにならないか?」と「結論倫理の定義における(2)は破棄するか、また修正が行われなければならない。」の繋がりが良く分かりません。

恣意
自分の思いつくまま、自分の考えるまま

と定義する。

  1. 倫理」が「自分の思いつくまま」だと仮定する。
    1. 「自分がこれをしたい」と思えば、「倫理」が変更できることを受け入れる必要がある。
    2. (1-1)により、全ての事象に対して、「倫理」が変更できる状態を、「なんでもできる」状態とする。

従って

倫理」は「実質、なんでもできる」を導き出すことができる。

従って、

  1. 倫理」は「なんでもできる」とする。
  2. 「なんでもできる」ということは、「何らかの行為が規制されていない」と置きかえられるものとする。
  3. 倫理」が、「何らかの行為を規制するもの」とする。(定義3より)

(1)(2)(3)から

「何らかの行為を規制するものは、実質、何らかの行為を規制しない」

ということが出来る。これは矛盾する。従って倫理恣意的であるとするならば、倫理は無効力であることが実証される。

よって、

  1. 何らかの行為を規制するために、倫理を持ち出すことを放棄しなければならない
  2. 倫理に効力を持たせる為に(2)を放棄/修正しなければならない

のどちらかを選択しなければならない。

[]文系モヒカン族芸術モヒカン族

定式化すれば、次のようになるんじゃないだろうか。

芸術系は、同人系にも当てはまるか?

[]トシ社会と「信頼に足る」

id:nisemono_san:20050711#p1

周囲にいる人々は信頼が出来ない。というのは、相手はどのように考えているか解らないからだ。そして、相手はもしかしたら自分を騙す意図があるとも考えられる。従って、自分しか信用が出来ない。

自分しか信用できないというよりも、周囲の人々が「周囲にいる」だけでは、「納得できる要因」が導きだせない、と変えたほうがよさそうだ。

変えたほうがいい理由は

  1. 「自分」が自明化されてしまう恐れがある
  2. 「騙す意図」を持ち出した点で、ムラ社会の反転にしかなっていない

だとすると、

周囲にいる人々は、ただ周囲にいるだけでは信頼が出来ない。というのは、そこからは言説の正しさを証明してくれるようなものがないからだ。

と定義したほうがよさそうだ。そうすれば、

id:kanose:20050712:kougai

トシ社会の「周囲にいる人々は信頼が出来ない。(中略)従って、自分しか信用が出来ない」だと、誰も信頼できないことになっちゃう気が。考えてみると、「隣に住んでいる人より、行きつけのコンビニの店員のほうがまだ信頼できる(気がする)」とか、電車に乗る時は、「周囲にいる人々は信頼できないが、鉄道会社の職員は信頼できる」とか。で、この後者の「信頼できる」(気がする)人たちが信頼できなくなるとトシ社会は成立しないと。

というのが上手く説明できそうだ。電車に乗るときは、周囲の人々(親しい人々)よりも、電車会社の社員の言うことが信頼に足るのは、それを信頼するに足るような「納得できる要因」(例えば、電車会社の人は電車に詳しい、電車会社の人は嘘を付かない(というのは会社の業務に差し支えを来たす)…etc)が周囲の人々よりも、多いからだと。

[]修正

id:nisemono_san:20050711:p1id:nisemono_san:20050714:p3により、(1)と(1.1)は無関係といえるから、別のところに移動させないといけないな。2に融合させよう。

私の周りにいるからという理由で「仲間」ということはできない。なぜならば、個人は、「人」だから同じ意識を共有しているのではない。それは、「私」による視点の差異を隠蔽する。「私」が「あなた」になれない限り、「私」と「あなた」に差異があることを出発にして考えるべきであり、予め「人」だから、同じように考えているという視点は慎むべきである。と同時に我々にはどうしても「私」と「あなた」という違いが含まれているのであって、その吟味が先ず必要である。

また、3も修正しなければならないな。

他人との関係を「嫌っている、好んでいる」というので区別してはならない。「自分」には間違いが存在している。この間違いを認識するために、「他人」がいるのであり、例え、相手が私を嫌っていたとしても、この間違いを指摘してくれる以上、真摯に受け取らなくてはならない。そして、他人と自分が同時に納得できるような説明がされれば、それは違う立場からも、正しさが認められるということであり、「納得できる要因」が増加する。

で、この3にプラスして

同じ論証によっては「納得できる要因」が増大しているとは言えない。違う論証によって「納得できる要因」が増える。従って、違う論証を出来るだけ受け入れなければならない。

とする。

リンクフリーの、デメリットが多いほうの解決

  1. 「いつもトイレを使っていただき、ありがとうございます」と書くと、トイレをきれいに使う人が増えたという話がある。
    1. 上記の話が正しいと仮定するなら、「リンク禁止」というよりも、「いつもリンクに許可をさせていただき、ありがとうございます」とすれば、実質無断リンクをする人は、「リンク禁止」と書く前よりも減るはずだ!

ただし、次の点で大きなデメリットがある。

  1. (1)の統計学的、あるいは心理学的説明が不明。ソーステレビ及びホームページのみなので、実際の効力を測るのが難しい(「きれいになった」という報告があるのみ)。
  2. 従って、本当に効力があるのかどうかが解らないということ。

rir6rir62005/07/15 00:08>「自分がこれをしたい」と思えば、「倫理」が変更できることを受け入れる必要がある。

>(1-1)により、全ての事象に対して、「倫理」が変更できる状態を、「なんでもできる」状態とする。
多分ここに勘違いがあるんじゃないかなぁ。「『自分がこれをしたい』と思えば、『倫理』が変更できる」ということは、その対偶に「『自分がこれをしたい』と思わなければ、『倫理』が変更できない」ということです。ここにおいて、「倫理」は「自分」によって規制される。ですから「なんでもできる」訳では無いんです。

naohaqnaohaq2005/07/15 02:32「『自分がこれをしたい』と思えば『倫理』が変更できる」の待遇は「『倫理』が変更できないならば『自分がこれをしたい』と思っていない」ですね。「『自分がこれをしたい』と思わなければ『倫理』が変更できない」は「裏」です。

ElisabethElisabeth2007/06/16 08:32Beautiful site!

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