地図の記述

2005-07-11

ムラ社会vsトシ社会

だな。トシ社会の基本的要素は次のように挙げられるな。二項対立?だ!

  1. 周囲にいる人々は信頼が出来ない。というのは、相手はどのように考えているか解らないからだ。そして、相手はもしかしたら自分を騙す意図があるとも考えられる。従って、自分しか信用が出来ない。
    1. 個人は、「人」だから同じ意識を共有しているのではない。それは、「私」による視点の差異を隠蔽する。「私」が「あなた」になれない限り、「私」と「あなた」に差異があることを出発にして考えるべきであり、予め「人」だから、同じように考えているという視点は慎むべきである。
  2. 私の周りにいるからという理由で「仲間」ということはできない。なぜならば、(1.1)で論じたように、我々にはどうしても「私」と「あなた」という違いが含まれているのであって、その吟味が先ず必要である。
  3. 他人との関係を「嫌っている、好んでいる」というので区別してはならない。それはただの甘えだからである。確かに(1)において、自分しか信用できないと論じたか、しかし「自分」には間違いが存在している。この間違いを認識するために、「他人」がいるのであり、例え、相手が私を嫌っていたとしても、この間違いを指摘してくれる以上、真摯に受け取らなくてはならない。
    1. 従って、誤字脱字及び事実確認が行われたとしても、それを相手が嫌いだということで否定してはならない。まさに、他人によって、私の間違いが正されるとするならば、これを受け取らなくてはならない。
  4. 個人と言説は無関係であり、例え何かの趣味が否定されたとしても、それを所持する個人が否定されたことにはならない。というのは、個人とはまさにその趣味だけではなく、全体的に評価されるものであるからだ。

んで、もう一つの社会弁証法的に現れる。それがコウガイ社会だ!

  1. 確かに、周囲のいる人々は信頼できないかもしれない。しかし、だからといって、ただ切り捨てるだけでは非情すぎる。我々は社会的関係によって生きているのであるからだ。だからといって、ムラ社会にも戻れない。問題は、その関係性を如何にゆるやかなものとして構築できるかということに関わっている。
    1. 「私」と「あなた」に差異が生まれることは間違いないが、それにあからさまに還元しすぎていないだろうか?「私」と「あなた」には差異がある。しかし、これを主張しすぎれば、そもそもコミュニケーションが出来るという自体が理解できなくなる。コミュニケーションが出来るということは、少なくとも「私」と「あなた」に差異ではない部分があるということを認めうることができるのではないか?
  2. 確かに、理想形態として、その言説のみで指摘されることは十分にいいことであるが、否定しがたい事実として、我々には感情がある。感情があるわけだから、例え「嫌っているか、好まれているか」で別けてはいけないにしろ、それによって認識が歪められたりすることがある。従って、我々は、その事実を無視することは出来ない。
    1. 従って、(2)から、我々が誤字脱字を行う場合、少なくとも、「相手が嫌う」ような指摘をしてはならない。もし、このことによって否認されたとするならば、単純に、我々のコミュニケーションの方法が悪かったということになる。

従ってー

ムラ社会
人そのものに重視を置く社会
トシ社会
言葉そのものに重視を置く社会
コウガイ社会
人と言葉との関係性に重視を置く社会

んでだ

よって、住民割り当てとしては…

ムラ社会{ケイタイ族(最先端)/反モヒカン族}

↓↑

コウガイ社会{イロコイ族(最先端)/メタモヒカン族}

↓↑

トシ社会{モヒカン族/擬似モヒカン族}

ということになるのかなぁ。